2023.4.24

The joy of rediscovery

安村敏信(北斎館館長・静嘉堂文庫美術館副館長)

 講談社から昭和五六年に刊行された『屏風絵集成 別巻 屏風絵大鑑』は、日本美術史の中でも近世絵画史を専攻する者にとって夢の宝庫である。この本には古くからの売立目録の中から面白そうでありながら、発刊当時には未だゆくえ知れずの屏風達が掲載されている。売立目録に出ているのであるから、当然その作品は当時現存し、その後再発見されていないということだ。

 再発見されていないのには二つの場合がある。ひとつは不幸なことに、震災・戦災その他の理由で、作品が消失してしまった場合。

 もうひとつは、作品価値を理解しない方々からの下で埋もれている。又はその存在自体が忘れられている場合である。

 後者の場合の再発見が、近世絵画の場合ここ四〇数年のうちで次々と実現されている。近年の例で割合皆さんの印象に残っているものと思われるのは、伊藤若冲筆「象と鯨図屏風」(MIHO MUSEUM)であろう。この作品発見時は、昭和三年の神戸川崎男爵家売立目録掲載作の再発見かと皆が期待した。しかし、よく調べてみると、川崎本と図柄が微妙に異なり、款記からも川崎本の二年後の作品と判明した。ただ、作品が持ち込まれたのが、当時若冲研究の第一人者でもあった辻惟雄先生が館長を務めるMIHO MUSEUMであったため、同館の所蔵となり、広く展覧会に出品されて、今や若冲の水墨作品の代表作のひとつとなっているのは喜ばしい。

 若冲でいえば「石燈籠図屏風」(京都国立博物館)も『屏風絵大鑑』で小さな写真を見て再出現を願っていた作品だ。若冲の水墨点描による異色作だ。これが再発見され、未だ公表されない時期に、私はたまたま知人の紹介で京都某所で見ることができた。再発見間もない頃で梅原猛さんに見せたばかり、と話されていたことが印象的だ。その後本作は文化庁の買上げとなり、現在は京都国立博物館の保管となっている。

 こうした再発見に私自身が立ち合ったことがある。板橋区立美術館に勤務し、江戸狩野派作品を収集しつつ、「狩野探幽展」(昭和五八年)を開催した頃のことである。

 何の予約もなく、突然都内に住むという一人の紳士が板橋区立美術館に訪ねてこられた。用件を聞くと、長野県の母の実家に探幽の屏風があり、これを処分して、実家の屏の修理をしたいという。その折持参されたスナップ写真を見て、私は息が止まりそうになった。実は私は大学院の修士論文で狩野探幽を扱い、その写真は明治三六年の『国華』に紹介されて以来行方不明の「風神雷神図屏風」だったのだ。探幽作品の中でも魅力的なこの屏風は、憧れの作品であり、早速長野県のお宅を訪れ、遂に作品と対面した。

 再会の感動とはうらはらに、詳細に作品を見るうちに、ふと疑問が浮んできた。水墨淡彩作品なのだが、宗達の風神雷神図屏風と違って、探幽のそれには下方に風を受けてとまどう人や雷雨の中で小走りになる人、傘で雨をしのぐ人といった下界の人間界が描かれている。その中国人物の描写に疑問をもち、探幽本人ではない可能性にゆきあたった。

 早速、東京へ帰り、私の撮った写真を辻先生に見せながら、探幽本人ではない可能性を指摘すると、賛同して頂いた。そこでの紳士に連絡し、理由を述べて探幽真筆としては購入できないが、伝承作品として購入したい旨を申し述べ了承いただき、現在同館の所蔵となっている。その後『古美術』という雑誌に再発見された探幽落款の風神雷神図屏風を「伝探幽」とした理由を述べた。

その後、この作品に捺された「守信」印が探幽在中に捺されたことが判明し、真贋問題には一石が投じられた。私は同館退職の際、私が退職すれば、この作品から「伝」は取っていいよ、と遺言したのだが、未だ「伝」は取られていない。

 


 

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